暇つぶしに不惑という単語をもとに、二進法で成り立つ電脳の世界を放浪していると、ある随筆にたどり着いた
下らぬ駄文に、書いているポチ本人も、いい加減うんざりしていたところなので、全文とまではいかないが一服の清涼剤として少しだけ載せてみようと思う
『四十の歌 福原麟太郎』
四十歳の歌は秋の歌である、蕭条として心が澄んでくる、あきらめのすがすがしさを身にしみて覚える。
自分にどれだけの事が出来るかという見通しがすっかりつく。
どんなことは出来ないということも解る。
そしてまず、天の定め給うたおのれの職分と、それに対する配分とは、これだけだったのかという見極めがつく、なにしろそれで落ち着いてくる。
中略
そして、ひそかにおのれの精神を愛撫しながら言うであろう。
おまえはよくも今日までいっしょについて来てくれた。
お前がもっと高度の精神にまで練れなかったのは、お互いの不幸だった。
しかしあまり怪我をしないでここまで来たのは、むしろ、幸運だったといわなければなるまい。
これからさきは力一杯に出来ることをして、秋の夕陽の中で、静かに熟れてゆこう。
※ここでいう『おまえ』とは自身のこと
受け入れられる年齢ということだろうか
自分に与えられた職分と、その配分を理解し、受け入れ、それゆえに孔子様のいうように、迷うこともなくなる
まわりと比較せず、与えられた環境の中、少しでも穏やかに過ごしてゆこうという覚悟が持てる年齢といっているのかもしれない
だが、ポチの日常と言えば、相も変わらずその日その日のパチンコの成績にふりまわされ、足りぬ地力に嘆き、未練たらたら、他に逃げ道はないだろうかと、いまだに浮足立った気持で生活している
さすがの孔子様や、福原先生も、ポチのようなフーテンが、のほほんと四十を迎えられるような安穏な世の中を想定していなったということか
とはいえ、色々なことに達観というか、開き直れる部分も増えてきた
このような場で、勘違いした文を書き、恥をさらし続けられるのも、その一つ
100円玉一枚を手にして、中高生が読むようなドメジャーな本を手にして激しく感じ入ったり、おなじく100円で借りることのできる映画を週に一本だけ観ては、良かっただの悪かっただのと一人ぶつぶつ呟く生活にも、さほど不充足を感じていない
まわりを眺めては、より豊かとされる生活をしている同年代を見ても単純に感心することが出来るようになってきた
こじつけのような由来であっても、浮き浮きとした気持ちで、コンビニの恵方巻きを夢中で口に押し込むなんてことが、日々の納豆食の間、たまにあってくれれば、それでいい
そのような情けない意味合いでは、自分も40の境地に立つことが出来ているのかもしれない
しかし、きたる老後に対して不安な気持ちが常に付きまとっている
なので、もうちょっと日々の生活費がかからぬよう、いまは、ボロボロの家でも購入し、施設から犬猫一匹ずつを貰い受け、ヨボヨボだけど陽気な爺さんとの共同生活を画策している
福原が四十歳の歌で締めている『秋の夕日の中で静かに熟れてゆこう』という一文
過剰な装飾のない、きれいな表現だとおもう
自分のような俗物が、同じようなものを求めるのは滑稽だが、もしも叶うなら、緑色の雷様が、腰をおろした瞬間に金盥がおちてきそうなボロボロの縁側にでも座って、静かに笑って歳を重ねていきたいなとねがう、平成フーテンの四十でした