~崩落『2』~  

 

羊水『1-1』 『1-2』

 

 

住まうマンションのドアに、管理会社から、脅迫めいた警告文が貼りだされていた

 

赤子ほどの大きさのその貼り紙には、滞納している家賃をすみやかに納めるよう、そして、期日までに納められなければ、即座に部屋を明け渡してもらう、拒否するようならば住人が不在のときにマスターキーを使って強制的に部屋に入り、家財一式を外に出し、そして住人が部屋に戻れぬよう鍵を丸ごと交換する、との内容が書かれていた

 

病床にあっても化粧を落とすことのないような、世間体や見栄ばかりを気にする母は、見たこともないほど激しく動揺した

 

そうでなくとも、近隣の住民に、我が家の内情を曝け出したようなものでもあり、眼前に谷でもあったならば、身を投げ出さんばかりにパニックを起こした

 

「なんで、アタシばっかり…」

 

傷口からいもしない病原菌を爪でばりばりと掻き出すように、記憶の底から自分以外に転嫁できる要因をえぐり出しては、それらに向って呪いの言葉を吐き続けた

 

もう終わりだわ、もう終わりよ、と泣き崩れる母を三日がかりで落ち着かせ、母と二人、管理会社へと向った

 

 

 

自分は、病的に愚かな親をもった、不幸な、そして常識的な息子のつもりでいた

 

担当者に対して、自分には非どころか、むしろ同じように被害者なのです、と感じながら、この度は母がご迷惑を~と頭を下げた

 

「良くできた息子さんだ、こんな息子さんがいるのにどうしてあなたは~」

 

そう返ってくるのを期待しながら、相手の言葉を待った

 

しかし、返ってきた言葉は、自分が予測していたものとはまったく違うものだった

 

「ああ、キミが息子の○○くんか。いままで何度も督促状をおくっているのだけれど、当然、キミも今回初めて知ったという訳はないよね」

 

「たしか○○でバイトしてるんだよね」

 

「月にいくらぐらい稼いでいるの」

 

「家がここまで苦しくなっているのに、お母さんを助けようとは思わなかったの」

 

「○○くんは何歳だっけか。普通ならば高校生だよね。同年代の子が必死に勉強してるなか、きみは学校にも行かずにバイトをして、その年齢が持つには決して小さくないお金を一体何に使っているの」

 

「…あ、いや」

 

相手が自分に投げた質問は、他人事のように捉えていた自分の甘さと卑しさを見透かして、非難したものだった

 

同時に、下らない嘘や言い訳などを一切させぬように、ひとつひとつ自分から手足をもいでいくもの

 

懺悔と告白、覚悟と誠意を、担当者は要求していた

 

そこにはきっと嗜虐的な気持も含まれていたが、それを捧げることによって、受け容れる姿勢も見せていた

 

しかし、自分はどうしても、繰り返していたあまりに恥ずべき毎日を口にすることが出来なかった

 

「…すいません」

 

自分は、この卑しい言葉を知っていた

 

母が無限と思われるほど債権者に繰り返していた、本当の答えを口にせずに終わらせようとする、相手に対してこれ以上ないほど不誠実で、卑しい、心から嫌悪を感じていた忌むべき言葉

 

自分は、それを口にしていた

 

「ん?、すいませんてどういうこと。ああ、質問が多すぎたかな。では二つだけにしてみようか。いくら稼いで、何に使っているの」

 

担当者の視線と声に、イラついた感情が混じってゆく

 

「…すいません」

 

小さな沈黙が、無機質な応接室に拡がる

 

「いや、僕はただ、きみがどのくらい稼いでいて、何に使っているのか聞いているだけなんだけどな」

 

「…すいません」

 

隣にいる母は、なにか口にすれば、すぐに矛先が自分へ向かってくることをしっている

 

だから、担当者や僕から体の軸を少しだけずらし、ワックスの匂いが微かに残る灰色の床を、放心したように見つめている

 

恥じ入っているわけでも、慙愧に耐えないというわけでもなく、

 

「理不尽に暴力を受けた善良な人間が、あまりの衝撃に心を失くしてしまったのです」

 

と、そのいびつに丸められた背中は語っていた

 

 

「は、だからなんなの、そのすいませんってのは。僕のしている質問の意味が分らないかな。細かく説明を求めているわけじゃないのはわかるよね。簡潔に言えば数文字で返せる質問なんだよ。もしかして高校にいってないキミには、それすらも難しい?」

 

「…すいません」

 

「あはははははは、すごいなきみは」

 

「給料はいくらか、『すいません』、何に使っているの、『すいません』、難しいのかと聞いても、『すいません』」

 

「じゃあ、給料の話も、何に使っているのかも二択でいいよ」

 

「答えられない、または答えたくないから、『すいません』なの?」

 

「もしくは高校にも行けないキミの頭では記憶できていないから『すいません』なの??」

 

「…」

 

「…」

 

「…すいません」

 

「はは、わかった、わかった。もういいよ」

 

「僕としても、きみら家族を追い出すことなく、滞納している分を返済していける形を一緒に見つけていければと考えていたんだけど無駄なようだね」

 

「やはり、きみらは親子だね、大変似ているよ。僕が何度足を運んでも、それまで家の中からしていたテレビの音はチャイムを鳴らすとともに消え、その瞬間から不在になってしまう。たまに外でお会いできた時も、今日は都合が悪いと断られる。ならばと都合のいい日を示してもらっても、何度事務所で待ったところで、何度足を運んだところで、話をすることすら出来ない」

 

「運よく顔を合せることが出来ても、出てくる言葉は『すいません、すいません』。結局、きみら親子はそのようにして問題を直視することなく、ただ、この時間が過ぎるのを待っているだけなんだろう」

 

「あのような警告文が発端とはいえ、はじめて自発的に話し合いの場に来てくれたかと思えば、この有り様」

 

「こちらから伝えることは、あの貼り紙に書いてある通りですから、そちらから言うことが他にないのであれば、もう結構ですので、お引き取りください」

 

打ち据えられて気を失っていたかのような母が、貼り紙という単語にピクリと肩を震わせる

 

このまま話が終わっては、あの腐肉の詰まったような部屋を見られてしまうことに母は気付いたのだ

 

それまで死んだように俯いていた母は、かすれた声で、「それだけは…」と哀願をはじめた

 

日々の不摂生からくる不調の上に、この場で受けたストレスから粘度の高い脂汗が体中からにじみ出ている

 

老いた皮膚を埋めるように塗りたくられたファンデーションは、ねちょねちょとした脂汗とまじりあい、神罰を受けてただれてゆく穢れた罪人のようになっていた

 

そんな母が、必死に担当の青年に縋りついている

 

はあはあと息を吐き、あえぐように、嬌声をあげるように、何の解決策にもなり得ない身の不幸を訴えていた

 

そんな母を見下ろす青年の心底うんざりした表情が、自分のなかの何かを、えぐり取ってゆく

 

「待ってください」

 

青年の視線がこちらに向いたことを確認し、絞り出すように言葉をつづけた

 

「バイトのお金を可能な限り返済に回します。バイトの時間も数も増やします、お金の方は必ずお返ししますので、どうか許してください」

 

瞬間、何を言い出すのかと意識をこちらに向けるも、意味を解し、視線に蔑むような色がもどってゆく

 

「なにを言っているんだキミは。許す許さないなんて話は一度もしていない。返すも何も、キミらが享受したものの対価を支払ってくれと言っているだけなんだ。すぐにというのが難しいのであれば、少しずつでも払っていける形を一緒に考えようと言っているだけなんだよ。そんなこちらの誠意を踏みにじっておいて、それでもどうにかなるだろうと考えていたが、そうはいかない雰囲気に焦って出てきた、そんな言葉を信じるわけがないだろう」

 

「それに言っている意味もわからない。今月末までに支払えなければ強制的にと伝えたはずだが、キミがバイトの時間を増やし、その給料をあてれば、期限までに支払えるの?」

 

「…間に合いません」

 

「おまえ、バカだろ。だから、そのことを話したくて何度もキミに状況の説明を求めているんだよ!」

 

「…すいません」

 

すいませんの言葉に、青年は失笑している

 

恥ずかしさと悔しさで、頭の奥が熱い

 

手足を捥がれ、丸裸に剥かれ、すべてを差し出したいと降伏しても、足らない

 

目の前がぐらぐらと揺れる

 

「まあ、いい」

 

「キミがそこまで言うのであれば、強制的な立ち退きは三ヶ月先に延ばす。それでも全額は支払えないだろうが、その間に返せる分だけ返してもらう。そして出て行ってくれ」

 

「出てい…、あ、いや、お金は必ず…」

 

「大家さんに今日の一部始終すべてを伝えたとしても同じ答えが出てくると思う。悪いけれど、もう庇いきれない。仮に全額返済できたところで、キミたちのような人間は必ず同じことを繰り返す」

 

「あ、でも、それじゃ…」

 

「嫌というのであれば、それでもかまわない、今後、回収はそれを専門で行う業者にまわし、あとは強制的に出て行ってもらうだけ。どちらも余計な費用は掛かるが、そのことでも大家さんには了承を得ている」

 

「ということだから。僕はキミたちのような親子に付き合うのは疲れた。帰ってくれ」

 

「きょ、強制的に立ち入られるのだけは…」

 

小さな虫の断末魔のように、かすれた声で母は訴えるが、青年はその言葉が聞えないかのように、部屋を出ていこうとする

 

「お願いしますお願いします、先ほどおっしゃっていただいた三ヶ月先までというお話で、どうか、どうかお願いします」

 

「え、いや、母さん、出ていくのにだってお金がかかるんだよ、それを…」

 

「アンタは黙ってて!!!」

 

さきほどまでの、まるっきり生気が失われていたような母とは結び付けようがないほどの大きな怒声が社内に響き渡る

 

僕は、見たこともない母の姿に唖然とし、青年は、わずかに口元を緩めた

 

「わかりました。そこまでおっしゃるのならば、こちらも応えないわけにはいきません」

 

「ただ、大家さんにも三カ月の猶予を納得してもらうために、今日の約束を書面にしてもらう必要があるのですが、それにも署名してもらえますよね」

 

小さな子供でもさとすように、青年は言う

 

滞納していた家賃に、曖昧な名称のついた経費、遅滞金、それらをすべて含ませた金額と、それを支払うことに同意する旨、そして、これからの三ヶ月で返済する金額、残りを分割で返済する旨、期日が記載され、それらが滞った場合には強制立ち退きに同意し、それにかかるすべての費用を負担するという書面に母はサインする

 

「これから大家さんに話に行くことを考えると気が重いですよ」

 

青年は手渡された書面を手にそう笑い、母はそれにサインしたことで、すべてが赦されたような表情で

 

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 

と何度も感謝の言葉を繰り返していた

 

 

転換『3-1』