阿佐田哲也の麻雀放浪記という小説がある。映画化もされているので、ご存じの方も多かろう。
自分は大学生でこの作品と出会い、めちゃくちゃハマった。純文学の色川武大として発表された小説はあんまりだったけれど、阿佐田名義の方は文庫本で全部集めたもんな。

その麻雀放浪記は一貫して坊や哲が主人公なのだが、ラストの番外編だけは語り部的な位置になっている。
本人は勤め人(といっても、真っ当とは言い難い不良社員だが)に落ち着き、若き日のライバルだったドサ健や、李という雀ゴロらしさ全開の新キャラ達にスポットが当たる形だ。

内容は麻雀が一部のコアな者たちの「食うか食われるか」の種目から、一般大衆の物になる中、激烈な生き方を貫こうとする古き博打打ちたちの哀愁を感じるものになっている。
これがねえ、自分にはパチンコの現在と重なって、何とも言えない感傷を生むのですよ。

そんなことを考えたのは、少し前に東洋経済オンラインでインタビューを受けていた打ち子さんが、パチプロと紹介されていたから。「プロの定義も変わったもんだ」と思ったのですよ。
ずっと前から「期待値」という言葉は一般化し、潜伏確変狙いから今に通ずる天井ハイエナの打ち方もパチプロの流れとしてできている。
ホールに禁止されている打ち方で無ければ、何をやっても良いのがパチンコという遊技なんだし、自分達の世代も一つ前の年代のプロからは「数字数字って、もうパチプロじゃないだろ?」くらいの感覚でとらえられていたのも事実だろう。

でも、古臭くなり、時代に淘汰されかける年代に到達した自分には、やっぱり違和感がある。極論すれば、「ハイエナが儲かる。じゃあいっそ、弱そうで文句を言えなそうな客の出玉をヤカラになってかっぱらえば、もっとお金になるんじゃね」まで行きかねない危惧というか…(現実には警察があるので杞憂だろうけど)。

だいたい、自分の中では「釘という一番重要な技術を習得した後は、怠け者がひっそり隅で生きていく。それがパチプロという存在」なんて卑屈なんだか世捨て人なんだかわからぬ思いがあったからな。
これは今の「常に努力していろんな物を習得していかないと脱落する」パチプロの現状の姿とは大きく違ってしまった。

個人の勝手な思いなんて現実に対応できなくなったら、ただの世迷い言でしかない。
だから、自分はいつか己を「パチプロ」と呼べなくなる時も覚悟しないといけないのかもしれない。勝てる間は呼び名とか関係なく打つけどね。

麻雀放浪記のドサ健は最後に愚連隊の数と暴力に駆逐されていく。パチンコの古い打ち手が何から排除されるのかはわからないが、自分はそうならないように、色んな物との折り合いをつけていくことになるだろう。

いろいろと愚痴めいたことを書きました。でも、今のパチンコで我が世の春を謳歌している人達も、いつか似たような感傷を持つ日が来るんだよ。その時に後悔しないようにね。