連載が始まっても、生活は相変わらずのパチプロのそれ。当然ですね、1Pの連載でいただける原稿料はタカがしれてるから。
他には石橋さんから「手伝ってくれへんか?」と言われたページを時々やった程度。

でも、自分はそれが心地よかった。「もしかしたら、ここが分岐点でライター業を増やしてカタギになる道もあったのか?」なんて思いもなくはないけれど、そちらへ足を踏み入れたら、今の誌上プロ最年長という経歴はなかったわけだし。好き勝手に生きられた人生も又ない。

まあ、当時の必勝ガイドは才気溢れるライターが沢山いた。自分がそこに加わっても、大した功績は残せていなかったはずだ。
天に召された田山さん、自分の人生を語る上で絶対外せない石橋さん。実機をいじくりまわす間に(プログラム解析すらせずに)攻略法を次々発見する熊ちゃん先生、スロットの才能でも鳴らした秋山先生(今や市議になったとの噂)、同じく頭のキレは別次元の怪人根本さん等。

銀玉親方こと山崎さんも外せないし、サイバラさんの繋がりでバラエティを一身に担った金閣銀閣のお二人(ゲッツ板谷さんもその一人)など、凄い人達が集っていたと今でも感心する。

自分がその中で頭角を表すのは、やっぱり難しかったろう。(田山さんは居たけど、それは別格として)他の人が時間的にもできない、日々を一介のプロとして生き、それを文字にする道を目指したのは正解だったんじゃないのかな。

転機というか、メディアの仕事が増え出したのは、一人二人と独立&起業して初期のメンバーが抜けていったあたりだったかもしれない。ほら、能力が高い人ほど自立していくのが世の常だからね。

ずいぶん話を飛ばすけれど、田山さんが亡くなった後というのもあったかもしれない。
「代わりは誰が務まるものでもないが、キャリアからいって俺か。非難を受けるのは覚悟してやろう」と、次の世代までのショートリリーフ(実はルックスと実力からゼットン大木君を推したのは、動画チャンネルの対談でも口にした通り)のつもりで1冊につき2本の連載をやった。日記はさすがに恐れ多くて「小池さん、オノさんとの3人の形なら」との条件はつけさせてもらったけどね。

日記に関してはその少し前くらいから、石橋さんが起こした編集プロダクションが作っていた「パチンコ王」という専門誌で連載していたコラムの文体での実験が、必勝ガイドの「つぶれてたまるか!」で形になったと思っている。平たい口調とエッセイに重きを置く形ですね。文体の方は実は大先輩の銀玉親方を参考にさせてもらってます(ペコリ)。

あと、やった事といえば何だろう。対談という形式の連載をパチンコ専門誌に持ち込んだこと(「週刊誌でもクラスマガジンでも対談は必須だし、あっていいんじゃないか?」が理由)、今だとトラマツ君が月イチで連載をしているページ(毎回機種を挙げて、勝つためのテーマを設ける)等、普通に専門誌に存在する連載のひな型を作れたことかな。毎月ネタに困ったけどね、ははは。

TVもスカパー等のメディアで出たけど、そちらはもう少し後の世代の功績かもしれぬ。自分はトーク番組以外だと実戦モノは数えるほどしか出演していないし、バラエティなんてほぼゼロだったので。

そんなこんなをしながら、一人だけ老いても同じ場所に立ち続けて今に至ると。次回は現在編でシメる予定です。