2025年4月13日から、「2025 大阪・関西万博」が開催されました。大阪市夢洲(ゆめしま)が最寄り駅となります。不要論や前売り券の不調、行列の酷さ、などいろいろ物議を醸し出してる訳ですが、今回で日本で行われる6回目の万博ということで、1度は行く気(現在は西口の方がマシかも)にはしています。特に、三菱未来館への55年前のリベンジしたい気が。狙い目(まだ人が多くない)は前半である5月~6月の平日のようですね。

そして、やはり万博と言えば日本で、いやアジアで初めて行われた1970年のそれ、を思い浮かべる訳でございます。「日本万国博覧会」ですね。

大阪ではなく日本、と付けた点、国を挙げての世界へ向けた一大イベントであったことが伺えます。TVと新聞。当時2つだけだったと言っていい情報源からは連日、この大イベントのニュースが流されました。

といっても、まだ生まれてない、またはベテランパチンカーであっても幼少で憶えてない、方も多いかと思います。ということで55年前のこれに参加した記憶を蘇らせて、1970年の大阪で行われた万博がどんなだったか、紹介をいたします。

戦後35年が経過し日本がバリバリ高度成長を遂げる中、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、大阪吹田市にて1970年3月15日から9月13日まで開催されました。入場者(入場料金は大人800円と当時としては高めに設定)も開催期間の後半へ行くほどうなぎ上りとなりました。

期間中はブラウン管TV(カラー化されて間もない関係で、赤色が滲む感じ)から、沢山の和服美人やミニスカコンパニオンに囲まれながら三波春夫さんが唄う「世界の国からこんにちは」を聞かない日はありませんでした。「1970年のこんにちは」。まさに日本の歴史にも記憶にも残る年となりました。

もう行ってきた。の声を聞いたりしていて閉館の時期も迫っていたその年の夏休み。ようやく我が家でも行く話になり、会場の地図を広げてワクワクしながら眺めたものでした。各国のパビリオンで色分けされたその地図は右側の「桜の花の形の日本館」左下の「白いドーム型のアメリカ館」左上の「赤く尖った形のソ連館」「鏡でできたカナダ館」「ガラスでできたスイス館」そして中央に位置した「太陽の塔」が目を引きました。

日本の企業のパビリオンもいろいろある中、三菱未来館の3次元スクリーン映像が観れるというのに興味を惹かれた私の希望を採用してもらいました。1番人気、月の石が見れるアメリカ館は連日、凄い行列ぶりが放映されていて入るのが大変そうなのでパス、な感じでした。

8月26日の当日は家族揃って汽車(もしかしたら電車だったかもですが、当時は普通に汽車と言ってました)で出発。多分夏休み最後の日曜日ということもあり、会場は人で一杯。その前に、大阪まで汽車で行くのは初めてにて、各駅で止まる時間も長く随分遠く感じたものでした。で、入場し初めて見るモノレールに驚き、動く歩道に驚き、まずは三菱未来館への行列に並びました。

これがもう物凄い人でぎゅうぎゅう状態。最初は頭上を走るモノレールに見とれていましたが、だんだんそんな余裕もなくなる炎天下、1時間経っても10メートルくらいしか進まない。さすがにこれではいつ入れるかわからないし、妹や弟の身の危険問題もあるし。(翌日の新聞で、その並び中での死亡事故の記事も)で、断念。しかし断念することを告げる為の親へ接近するのもままならないぎゅうぎゅうぶり。ちなみに期間中、けっこう並び中の死亡事故のニュースがあった記憶があります。

安全対策などは二の次、世界へ追いつき追い越すためにはイケイケ、であったようでございます。

そして行列の人垣から抜け出し近くにあったチェコスロバキア館へ。ココは並ぶこと無く入れ、館内も国の民族衣装が展示してある程度な感じで空いていました。最近の話ですが、弟も「チェコスロバキアという国が良い国だと思った」と言っていました。

その後、太陽の塔に向かう。さっきの三菱未来館に比べたらさほど並ばずとも中へ入れ、薄暗い中ジグザグのエスカレーターで、まずは三葉虫、アンモナイトなど古代から始まる生物と人類の歴史についてが描かれた壁面や立体展示物を観つつ上へあがりました。

太陽の塔の上部から外へ出れば、空中に広い空間が。そこでお弁当を広げました。ちなみに、岡本太郎氏が設計した太陽の塔のみ、今も当時の姿のまま残されていますが、当時その目の部分に何日間も居座った不届き者のニュースもしていましたね。

会場内では木造の建物(多分ブリテッシュ・コロンビア州館)の前で写真を撮ったり(今も水筒を肩にかけた私の写真が残っています)しましたが、結局中に入ったパビリオンはチェコスロバキア館と太陽の塔だけでした。

その後、また家族揃って汽車で帰るわけですが、どこかの駅で随分長く止まっている間の視界に入ってた工場と立ち上る煙。遠い遠い夏の暑い日。まだ陽炎が残る夕暮れ前の風景でございました。

 

さて、あれから55年が経過した今回の大阪万博。その会場となったのは負の遺産とされた大阪湾の人工島。廃棄物の処分場として埋め立てられた後、海底トンネルなど巨額の公費が投じられた新都市構想や五輪誘致もとん挫。その解決策として打ち出されたのがカジノと万博の誘致。

つまり、負の遺産解決策としてのカジノ。ありきの万博。さらには産廃物からのメタンガス問題などの安全対策が確保されていないとこれの参加を見送る小中学校。脆弱な交通手段。この開催期間中に南海トラフ大地震が起きないことを祈るばかりでございます。