「しょうがなかったの」

 

母はそう言い、表情を隠すように自分のことを抱き寄せた

 

自分は母を恋しく思ったことはなかった

 

そんなことを考える隙もないほど、ずっと、父と祖母とが自分を抱きしめていてくれたからかもしれない

 

しかし、じぶんはその手を振り払って、母の元へきた

 

自分を抱きしめる母の腕は、どこかこわばっていた

 

その腕からは、なにかが露見してしまう事への怯えのようなものが伝わってきていた

 

 

家を支える母は、夜の仕事で身体と精神を壊し、半分寝たきりのようになっていた

 

月日を追うごとに、だんだんと頻度を増してくる支払いの督促を、ひと月遅れで支払っては二月飛ばし、三月経ってはひと月半だけ支払うなんてことを繰り返していた

 

出ることを禁じられていた自宅の電話からは、督促の怒鈴が途切れることなく鳴り響いた

 

訪問者を恐れ、居留守を装うためにテレビは聞き取れるかどうかという少音量、会話をするならば小声、部屋の中を移動するときにも細心の注意を払い、少しでも物音を立てようものなら、「なんで、お母さんをそんなにイジメるの」と、母は啜り泣いた

 

 

祖母の家から来た当初は、居留守という言葉すら知らなかった

 

自分は、電話に出ることが好きだった

 

受話器の向こうの見知らぬ人から、受け答えを褒められることが何より嬉しく、電話が鳴るのをいつだって心待ちにしていた

 

だから、電話に出てはいけないと強く言い聞かせられていたにも拘らず、反射的に出てしまうことがしばしばあった

 

そんなことがあるたびに、母は恨めしいような一瞥を自分に投げ、受話器を受取っては蚊の鳴くような声で「すいませんすいません」と何度も謝罪の言葉を唱え、色の焼けた襖に向って頭を下げ続けた

 

「お婆ちゃんのとこでも居留守くらいしたことあるでしょう、なんでアタシにだけそんな意地悪をするの」

 

電話をきったあと、ヒステリックに嗚咽する母にたいして、どう答えていいかわからなかった

 

 

そんなときから数年が経ち、いまでは電話にも玄関を叩く音にも何の反応も示さぬようになっていた

 

床をトン、ト、ト、トン、トンと小さく鳴らす音がする

 

これは、母が用事があるときに自分を呼び出すときの合図

 

部屋を出て、ところどころ破けた襖を開ける

 

債権者の来訪を怖れていた母の部屋はいつでも薄暗く、遮光物を透いて届いたわずかな光が、ぼんやりと部屋の内部をうつしていた

 

押入れに、ねじ込むように仕舞われた大量の着物、透明の袋に無造作に放り込まれた洋服

 

壁に吊るされた古い形のドレス、そこに散りばめられたスパンコールは、厚く閉されたカーテンの隙間からわずかにこぼれる光を集め、チリチリと赤く光っていた

 

畳の上では、大量の薬、口が開いたチョコレートの箱、累々と重ねられた洗濯物、表紙だけは上品に彩られた、会ったこともない人間の醜聞と目を覆うような生々しい性が詰め込まれた猥雑な女性誌が散乱しており、坐れるような隙間はどこにもない

 

寝床から半身を起こす母の話を聞くため、僕はつま先立ちのまま身体を屈める

 

訪問者があっても気付かれぬような小声で話すため、母は僕の肩をつかみ、顔を寄せる

 

大量の薬の服用によるラムネのような呼気、混じり合った寝汗とファンデーションの濁ったような甘い匂いが鼻腔をつく

 

「夕方、アルバイトに行く前にお母さんのこと起こしてくれる?」

 

僕の耳に唇を寄せ、ささやくように話すその声は、まるで睦言でも語っているような色をしている

 

長年の夜の生活によって髄まで浸み込んだ習慣は、本人をまるまると飲み込み、母はいつしか、存在自体が『夜』そのものとなっていた

 

部屋のあちこちに飾られてある無数の写真は、妙齢と『夜』とがこれ以上ないほどの調和を示している頃のもの

 

媚びるような色を表面に浮かべたその瞳の奥に、どのような男でも跪かせることが出来るという自信が隠しようもなく零れおちている

 

僕は部屋に戻ろうと立ち上がり、ふと視線を母に落とす

 

そこには長年の労苦と、併発している多くの病気、そして加齢によって白くむくんで溶けだしたヘドロの山のような姿影があった

 

きっと、そのぐずぐずの肌をつまみあげれば、べろりと皮が剥け、破れた皮膚のあいだからはドロドロと臓腑があふれてくることだろう

 

大量のゴミと薬、そして蝶であった頃の残骸で埋め尽くされた、母の部屋

 

その中心にある寝床は、ゴミだらけの草叢にぽっかりと口を空けた巣穴のようだった

 

ひゅーひゅーと息苦しそうにその穴に潜り込もうとしている母を見て、子供たちに理不尽に半身をむしられて蠢いている芋虫を、僕は思い浮かべていた

 

 

羊水『1-2』