広島の大学で丸1年ほど遊んだ後、私はひとり上京しました。いや、遊んだというのは少し語弊があるかな。とりあえず受験勉強はしていましたから。

ここらへんの話を書くと長くなるので割愛。私の悪い癖で、話が脱線するとどんどん違った方向に進んでしまうので、今回はなるべく寄り道を少なく真っ直ぐに書き進めることにします。前回は長文すぎましたね。

さて、上京したての私が最も驚いたのは、パチンコの交換率でした。広島に居たときは、どのホールも一律で2.5円交換、つまり40玉で100円になったのですが、東京ってホールによって交換率がまちまちだったのね。

初めてパチンコを打った、宮益坂の中腹にある「タンポポ」というホール…今でも残っているのかどうか知りませんけど、授業が始まるまでの時間つぶしと思って三共の「空中戦」という羽根物を打つと、ラッキーなことに投資400円で小箱に1箱半の出玉を獲得したんですよ。時間が来て出玉をカウンターに流すと1000個チョイでした。頭の中でカタカタカタっと計算しますよね。約2500円ほど戻ってくるから、2100円くらいの勝ちだな…と。

ところが、渡されたブツを近くの古物商(当コラムではこう表現させていただきます)に買い取ってもらったところ、窓口からポンと3300円の現金が飛んできました。一瞬、昔のお嬢さんが間違えたのかと思いましたが、どうやらこの店は交換率が3.3円のようです。

「へぇ、凄いなぁ…。さすが東京だ!」

そう思ったんですけどね。後になって、「交換率が高いということは、そのぶん釘がシブく…じゃなくて、調整がキツくなる」ということを嫌というほど思い知りました。嗚呼、面倒臭い!

それと、不思議に思ったことがひとつ。

広島ではパチンコ店の中にスロットのシマがあったけど、東京では自分が知るかぎり1軒も併設店がありませんでした。つまり、パチンコ店に設置されているのはパチンコのみ。0号機スロットは数少ない専門店にしか設置されておらず、サミー工業の「エンパイア」や「フラッシュクイーン」などを打った記憶はあるけれど、心に深く残る思い出は何もなし。結局、0号機と私はその程度の縁だったんですね。

調べてみたところ、当時の風営法では「パチンコとパチスロの併設」は認可されていなかったようです。なのになぜ、広島では併設されていたのか? 細かい疑問は残りますが、何しろ昔のことですから、目くじら立てることもないでしょう。

なお、この年の私の収支表は以下の通り。

1月   -43,400円
2月   -11,700円
3月       0円
4月   -32,420円
5月    -3,900円
6月   -23,200円
7月    -7,500円
8月     -380円
9月    -34,800円
10月   +99,400円
11月   +37,700円
12月   +75,700円

トータル年間収支はプラス 55,500円です。

秋口まで凄い勢いで負け続けていたのですが、10月にいい店を発見しましてね。それは、渋谷の明治通り沿いにあった「ジャンボ」というこじんまりとしたパチンコ店。この店は羽根物がメインで、なおかつ特定の時間になると「打ち止め台の抽選開放」をしていたんです。つまり、私は抽選開放だけを狙って打ったってこと。今考えると、かなり姑息な立ち回りですけど、若干19歳の若造がやってたことなので、どうぞ大目に見てやってくださいな。