個人的に、パチンコ収支管理の歴史は古く、多分勝ってるんじゃ?なら、収支を付けてみようと思い付け出したのが、1982年7月30日。

まだ、島角や台間の玉貸し機に100円を入れ、手で玉を受ける時代。

その収支を折れ線グラフにして、ジグザグも遠目に見れば右肩上がりになる、ああ、勝てるものだ、と実感。

4千個定量(打ち止め)ルールだったので、勝っても負けても千円単位のまだ娯楽の時代でした。

そんな時代、初めて攻略できた、と感じる台に出会えました。

台に、京楽、権利物、とあったが名前の記載がなく、店内放送で「センターコーナー終了確認お願いします」と言っていましたので、仮称で呼んでましたが、その後、上野のパチンコ博物館へ行った時に牧野館長にお尋ねをし、「多分テンプターだと思う」とお答え頂きましたので、そう呼ぶに至りました。

当時はけっこう見かけた、一発台のビッグウェーブにも付いていた、いわゆる「虫食い状3つ穴回転体」付きの台。

盤面中央に左右からの飛び込み口があり、ココに入れば左上のチューリップが開く。開いたチューリップにより、玉が左下の回転体に向かう道ができて、この3つ穴回転体の長穴に入れば、下アタッカーが数秒間開く。

以降、左上のチューリップに玉が入って閉じるまで権利継続、といった台で、如何にチューリップを閉じさせることなく出玉を取るか、がポイントでした。

で、考えたのが、回転体の長穴の位置を見計らい、下に来たとき2発、ブッコミを通すように打つこと。

ブッコミを通った玉はチューリップに向かうことはなく、アタッカー解放中は、右打ちで右からアタッカーに入れる、という攻略打法を確立。

仕事帰りに、台が1台空いてればいい、という感じで、1984年から外されるまでの2年間、追いかけました。仕事も週休1日とか忙しい時代で、回数は制限あれど、2台切り目指した休日などは勝率9割はありました。

情報誌などの情報源も無い時代、そんな打ち方してるお客も皆無。

2年間培った2個ブッコミ打法の技術が、その後25年の時を経てファフナーに繋がるとは、その時はまだ夢にも思っていませんでした。

■じゃじゃ流パチンコ川柳

「パチンコは これが醍醐味 玉挙動」